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アクティングスタジオ記事

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ええ、私に必要なのは、チャンスだけです

チャールズ・スペンサー・チャップリン・ジュニア(Charles Spencer Chaplin, Jr.、1889年4月16日 - 1977年12月25日)は、イギリスの映画俳優、映画監督、コメディアン、脚本家、映画プロデューサー、作曲家(wikipedia参照)

真山知幸氏の心に響く言葉より…

チャップリンは6歳にして貧しい人々の施設「貧民院」に入所したため、まともな学校教育を受けることができなかった。 芸人だった父は酒乱で、チャップリンが1歳の時に離婚。 安いアパートの屋根裏部屋での生活は、母の歌手としての収入だけで成り立っていた。

チャップリンが始めて舞台に立ったのは5歳のとき。 急に舞台で声が出なくなった母が、観客からの激しいヤジで袖に引っ込まざるを得なくなり、その代役として舞台に送り込まれたのが、そもそもの始まりだった。 わずか5歳で舞台に立たされるなんて、緊張して泣き出してもおかしくない状況だが、チャップリンはオーケストラの演奏をバックに、当時流行していた曲を堂々と歌い始める。 歌の途中で、客席からお金が次々に投げ込まれると、チャップリンは「お金を拾ってからつづけます」と歌を中断してお金を拾い始めた。 すると観客は大笑い。 その後も、ダンスからモノマネまでエンターテイメントの才能を発揮した。 母の喉は回復することはなく、この舞台を最後に引退。 生活はさらに苦しくなり、仕送りを気まぐれに送ってきていた父親も37歳で他界してしまう。 その後、母も病に倒れるなど、次から次へと人生の困難が、若きチャップリンに降りかかってきたのだ。

チャップリンは自伝で、次のように書いている。

「新聞売り子、印刷工、おもちゃ職人、ガラス吹き、診療所の受付、等々と、あらゆる職業を転々としたが、その間も、俳優になるという最終目標だけは、一度として見失わなかった」 チャップリンは仕事と仕事の合間に、俳優事務所を訪ね歩いていた。

いくつかの寸劇を行ないながら、大きなチャンスが巡ってきたのは、17歳のときだ。 イギリスの劇団のオーナーから『フットボール試合』という芝居で、ハリイ・ウェルドンという当時人気を博したコメディアンと同じ舞台に立つチャンスを与えられたのである。 「どうだ『フットボール試合』でハリイ・ウェルドンの相手役がやれるかね? 突然、転がり込んできたチャンス。 チャップリンは戸惑うことなく、堂々とこう答えた。

「ええ、私に必要なのは、チャンスだけです」

オーナーも初めはどこまでやれるのか半信半疑だったが、2週間のテストの結果、チャップリンは見事合格した。 主演を完全に食ってしまうほどの活躍ぶりで、評論家たちはこぞってチャップリンを絶賛。

大型新人の登場は、大きなインパクトを与えた。 チャップリンが秀でていたのは、いつでも「チャンスさえあればやれる」ように準備をしていたことだ。 さまざまな職業で生活資金を稼ぐ一方で、舞台で場数も踏み、経験を積んでいた。 環境や他人のせいにすることなく、ただ自らの才能を信じて前に進み続けたのである。

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急に舞台の主役が倒れ、急遽、主役の代役ができるのは、主役のセリフと演技を覚えていた人だけだ。 「幸運とは、準備がチャンスに出合うこと」(オプラ・ウィンフリー) チャンスは、夢や希望がない人にはやってこない。 夢や希望がなければ、チャンスがやってきて、もそれに気づかないからだ。 そして、チャンスに気づく人は、失敗を恐れず夢に向って行動する人。

「必要なのはチャンスだけ」

将来の夢に向ってコツコツと準備を整え、必死の努力を重ねたい。

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